メッセージ
聖書に『わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ書29章11節)という言葉があります。個人的ですが、私はこの言葉が好きです。今まで、どんなにこの言葉によって希望をいただいてきたか分かりません。
この神の約束に基づいて、たとえ私たちの将来に、災いと見えたり、思えたりするようなどんなことがあったとしても、真実の愛の神のご計画には、私たちに災いを与えようというようなことはないのです。結果としては、必ず「平安と将来と希望」とをもたらすのが、神のご計画なのだということです。
それは、私たちを愛してやまない、生ける真の神を信じることにより、神は「災い」と見えることをも含めて、すべてのことを「善いこと」に変えてくださると信じることができるのです。そういう意味で、私たちの将来はいつも明るいと言うことができましょう。
私が五十歳も過ぎて半ばごろのことでした。ある特別集会でご奉仕した際に、私のことを「この方は将来有望な方で・・・」と紹介してくださったことがあります。「一生、将来有望でおしまいだな」と思わないでもありませんでしたが、でも、神のご計画の中に生きる者にとっては、いつまででも「将来有望」ということだなと考えたら、うれしくなりました。私たちは死んでも栄光の入る望みがあるのですから、私たちはいつまでもキリストにあって「将来有望」なのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
「望まなければ何事も成就しません。希望は成功に導く信仰です」と語ったのは、見えない、聞こえない、話せないという三重苦の中でも希望を持ち続けて歩んだヘレン・ケラーです。
聖書は、『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ』(ローマ人への手紙4章18節)と、アブラハムの生涯を紹介しています。彼は、妻サラとの間に神さまから祝福を受ける子どもが与えられるとの約束を信じて歩みましたが、現実は彼ら夫婦の年齢からして不可能と思えたことでした。アブラハムが、そんな「望み得ない時」にも、どうしてなお望みを抱いていることができたのかは、言うまでもなく真実の愛の神を信じていたからです。この神は、『死者を生かし、無いものを有るものとして召される』からです(同17節)。彼の信じていた神は、絶望をも希望に生かすことのできると、生涯信じ信頼し続けたのです。
「望み得ない時にも望みを」と言っても、単なる意地っ張りや空望みではありません。根拠があってのことです。事実イエス・キリストを死より復活させたお方、さらにそれ以上に、無から有を呼び出す神、すなわち、創造主なる神がおられるのだからという確信によることなのです。
ヘレン・ケラーも同じように、この真実の愛の神を信じて望みの人生を歩んだのでした。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
聖書に次のような言葉があります。『木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない』(ヨプ紀14章7節)。
「木には望みがある」とありますが、その木の望みは「根」にあるでしょう。根はどんな嵐に揺さぶられても倒れないように支える働きと、絶えず大地から水分と養分を吸い上げては命を供給しています。根はその木にとっては命の支えであり、根がしっかり大地に食い込んでさえいれば、葉が落ちて枯れ、枝が切られるようなことがあっても、なお木には望みがあります。
人の一生には、いろいろな時期があります。物事が順調に思える春もあれば、思いがけない大病、愛する者との死別、ときに挫折の経験といった冬のような厳しい時期を過ごすこともあります。しかし「たとえ切られても」もし根がしっかりしていれば、それらの試練に打ち勝って「また芽を出す」ことができるのです。「根がしっかりした人生」とは、どこにあるのでしょう。
聖書は私たちに語るのです。人生という木の根を、自分自身の中に見いだすのではなく、自分と同じ経験をする人に見いだすのではなく、木にとって大地のごとく、人間にとっての命の根源、存在の根底、人間の創造者である真の神に見いだすのです。このお方は愛の神、このお方に根差してさえいれば、「たとえ切られても」その「木には望みがある」のです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
人は希望によって生きる、ということができるでしょう。人が生きるのは希望があるからだと言えます。もし希望のともしびが消えてしまったらその人は生きることをやめてしまうことになるでしょう。失望や絶望とは、希望がなくなったことを言います。しばしば挫折することがあるでしょう。でも挫折とは、希望を失ったことを意味するのではありません。
聖書には、こんなすばらしい約束のことばがあります。『苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す』とあり、『この希望は失望に終わることがありません』(ローマ人への手紙5章3~5節)と続きます。私はこのことばが好きです。普通なら喜べるはずのない『苦難さえも喜んでいます』とさえ語っています。挫折、あるいは苦難というのは、次のより良いものを生み出すステップであり、プロセスだからです。
そのように言い切れるのには、理由があります。聖書のメッセージの中心に「復活」があるからです。その復活の意味は、「もうこれでおしまい」、「万事休す」ということはないということです。復活というのは、人間にとって絶望といえる死を打ち破ったのですから、キリストを信じる者には絶望ということはありえない、「失望に終わることはない」ということ、どんな中にも希望はあるというのです。ここに、本当の勝利があります。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
聖書の中に38年間も病を患い、心身ともに疲れ果て、絶望しきっていたひとりの病人の話が出てきます(ヨハネの福音書5章1~9節)。彼は、ずっとベテスダと呼ばれる池のそばに伏せっていました。べテスダの池とは、「あわれみの家」という意味の間欠泉だったようで、池の水が動き始めたときに最初に水に入った者がいやされると信じられていたらしく、大ぜいの病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人が伏せっていて、皆その池の水の動くのを今か今かと待っていたのでした。
イエスさまは、38年もの間伏せったままのこのひとりの病人が『横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると』、『なおりたいのか』と声をかけられたのです。だれからも無視され、目に留められることもなかったこの病人に、イエスさまは目を留められたのです。そして彼の体が、心がどんな状態にあるかを理解してくださったのです。「どうせ俺なんか」と自分自身にサジを投げていたかもしれないこの人に、「その気が本当にあるなら、今でもなおるんだよ」と「なおりたいのか」とその願望を確認されました。そして、その願いのとおりにいやされ、立ち上がることができました。
今も心身の痛みや苦しみを覚える私たち一人ひとりに、「あなたはなおりたいのか」と主イエスは声をかけておられます。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
「あなたは何をしたいのか」
いつのころだったからか、「何をしたらいいのか分からない症候群」というのが増えているとのことです。それは、今も変わらな いようで、若い人たちの間に多いと聞きます。
それは単に「何をしたらいいのか分からない」というよりも、「何のために学ぶのか分からない、何のために働くのか分からない、何のために生きるのか分からない」という、生きる上での根源的な問いにかかわることで、その答えが分からないために起こる現象なのではないでしょうか。
解決はあるのです。人生の意味とは、人間が自分で決めたり、作り出したりするものではない。私を造り、私を存在させてくださったお方にその意味を問い、この私を存在させてくださったお方の意図に添って生きるのが人生だと「聖書」を通して知らされるのです。しかもそのお方は、この私を私ならではの、かけがえのない存在として、愛していてくださるということなのです。聖書は語っています。『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました【生きるようにして下さった】。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。』(ヨハネの手紙第一4章9節)。
2026年7月25日(土)
教会学校ワンデーキャンプを行いました。
とても楽しいひとときでした。
37年前の忘れられない苦い思い出です。私にとって大切な結婚指輪を外した際に、私の不注意でなくしてしまいました。大げさのようですが、そのときこう思いました。「あの指輪はこの地球上のどこかに存在していることは間違いない。でも、あるべきはずの私の指になければ、何の値うちもない。あるべき私の指にあってこそ、指輪は指輪として価値を持つんだなあ」と。
人類の祖アダムとエバは、神の戒めに背いて罪を犯して後、『神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠し』ました。そのとき神である主は、その身を隠している二人に、『あなたはどこにいるのか』と呼びかけられたと聖書に記されています(聖書:創世記3章8~9節)。
人間が罪を犯して失敗したとき、神は「あなたは何をしたのか」とその行為をとがめられたのではなく、『あなたはどこにいるのか』と、その存在の在りかを尋ねられたのです。つまり、神との位置関係をただされたということです。
あなたは「あるべき場所にある」との確信をお持ちでしょうか。救いというのは、神との正しい位置関係が回復されることなのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通標語が目についた時がありました。みんなが何か急いで、その人生をせかせか生きているように思えるのですが、いったい「どこへ行く」のか、行き先は分かっているのだろうか、そこに不安はないのか、と尋ねたくなります。
なぜ人は、何をしても不安なのでしょうか。なぜ落ち着かないのでしょうか。それは、人生の行き先がはっきりしないというところからきていると言えないでしょうか。
「幸福論」で知られるカール・ヒルティはその中で、「人間はどこから来て、どこへ去るのか・・・誰でも少なくとも一生に一度はこの疑問に解答を求める。しかし、残念ながら大抵の人は、その答えを得ないでその人生を終わる」と言っています。それが事実だとしたら、人生はあまりにも悲しすぎるのではないでしょうか。
イエス・キリストは、『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます』といわれましたが、それというのも『わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから』(聖書:ヨハネの福音書8章12節、14節)とおっしゃるのです。ですから、『わたしが道である』(同14章6節)とも言われるこのお方について行くことが、一番安全で間違いないのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
〈教会の駐車場で暑さにも負けず綺麗に咲いてくれた薔薇に感謝🌹〉
『イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。』 (聖書:へブル人への手紙13章8節)
私たちは、移り変わる四季折々の風情を楽しむことが好きです。寒い冬が過ぎ、春が来ます。暑い夏があり、そして秋に向かいます。四季の美しさ、それは、ものの移り変わりの美しさでもあるわけです。
四季折々の自然にふれ、移り変わる風情を楽しむ、これは結構なことです。しかし、お互いの人生が、ころころと変わってしまうとするなら、落ち着きません。人生には、決して移り変わらないものが土台として、どうしても必要なのではないではないでしょうか。
時代は変わります。流行も変わります。体制も変わります。自然も変わります。変わらないものは何一つないと言えるでしょう。しかし、変わることのない方がいてくださるなら、それはどんなに大きな安心を与えることでしょう。
「天の父なる神さま」とお祈りをする生きておられる神さまは、決して変わることがありません。神さまであるイエス・キリストのあなたへの愛も変わることがありません。あなたに注がれている恵みも変わることがありません。イエス・キリストの真実な約束も、変わらないのです。
変わりやすい私たちだからこそ、決して変わることのない方を信頼して生きていくことにこそ、大きな人生の安心が生まれるのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見 た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとま ことに満ちておられた。』 (聖書:ヨハネの福音書1章14節)
私たちが本当のイエス・キリストを知るためには、その生涯を記した聖書を開く必要があります。
聖書には、イエス・キリストは、「恵みとまことに満ちて」おられる方だと紹介されています。「恵み」。それは本来、受けるに値しない者に向けられる神さまの一方的な慈しみであり、愛です。「まこと」とは、真実そのものということです。
イエス・キリストの恵みは、自分を正しいと主張する人たちにではなく、自分では自分を救うことができない、罪深い弱い存在であることを認め、心から真実な神さまに助けを求める人にこそ、注がれていくのです。この恵みは、赦しの恵みであり、愛されていることを知ることのできる恵みなのです。
この恵みを受けるためには、ただひとつのことをすればよいのです。「イエスさま、私はあなたの助けが、救いが必要です。私の救い主として私の心にお入りください」と祈り迎えるだけなのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』 (聖書:ヨハネの福音書3章16節)
聖書は、神さまから私たちへの約束の書です。四週にわたって紹介した冒頭の言葉にあるように、イエス・キリストを信じる者は、「永遠のいのち」を持つと約束されています。これは、単なる長生きではありません。聖書には、『永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです』(ヨハネの福音書17章3節)とあり、イエスさまとの出会いは、神さまとの出会いであり、それは永遠のいのちとの出会いである、ということです。
ですから、「永遠のいのち」を持つとは、人生の生きる意味や目的を見失ってしまう人生から、それらを見いだす人生の出発になっていきます。自分はどう生きていったらよいだろうかという迷いの人生から、人としての本来のあるべき人生へと導かれていくのです。
「生きる」ということは、イエス・キリストを知ること、それは人生の救い主として、イエスさまを受け入れ信頼することです。そこに、豊かな永遠のいのちが注がれると約束されているのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
(聖書:ヨハネの福音書3章16節)
こんなふうにおっしゃってくださる方があります。「川原﨑さんはいいですね。聖書を単純に信じられて。私はなかなか・・・。どうしたら信じられますか」と。信じるということを、ただ理性を殺して自分に思い込ませる、また一切の疑問を持たないということだと考えておられる方がおられるでしょうか。
でも、信じるということは、私たちの日常生活の基本にあることです。私たちの日々の生活は、信じ、信じたとおりに行動し、その結果を体験することの繰り返しをしています。信じるということは、特別なことではなく、私たちの生活の全領域に直結していることなのです。
聖書の約束を信じることも同じです。『御子(イエス・キリスト)を信じる者が・・・永遠のいのちを持つ』とあり、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、この方によって、尽きることのないいのちが与えられるという約束に生きていくことです。聖書の約束を信じ生きるという人生は、思い込むことでもなく、理性を殺すことでもなく、その約束に乗り込むことなのです。
信じることは、信じたとおりに生きていくことなのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
(聖書:ヨハネの福音書3章16節)
「神さまはあなたを愛しています」。これが、聖書が伝えるあなたへのメッセージです。でも神さまに愛されている私たちの姿は、どういう状態にあるでしょう。
聖書は、私たち一人ひとりは「滅び」の状態にあると教えています。それは、人生の意味や目的を「失っている」ことです。自分がどこから来て、どこへ向かって行ったらいいのか分からないで「迷っている」ことです。時には、自分を傷つけ、さらに人を傷つけ「壊している」ことです。
しかし、あなたを愛される神さまは、あなたが「滅び」の状態であることを決して願っておられません。その状態から何とかして救うために、ご自分のひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。「御子(イエス)を信じる者が、一人として滅びることなく」とあるように、イエスは、失い、迷い、壊しているような人生から、私たちを新しいいのちへと導いてくださることを約束していらっしゃるのです。
神の愛は、滅びの状態から、いのちへと導く愛なのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
(聖書:ヨハネの福音書3章16節)
「神は世を愛された!」 これこそが、あなたに伝えたい最も大切な神さまからのメッセージです。ここでいう「世」とは、私たち一人ひとりのことです。ですから、「世」ということばを「あなたの名前」に置き換えることができるのです。
私たちは、神さまの愛ということばを聞くと、なんとなく漠然としたイメージを持ってしまうかもしれません。でも、聖書が示している神の愛の姿は、「ひとり子をお与えになるほどの愛」だというのです。これは、最も大切なものを私たち一人ひとりに差し出す愛、ということです。
神の愛は、私たちを救うために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストをこの地上に送り、あなたのために、そのひとり子のいのちさえも惜しまずに、あなたや私の身代わりとして十字架で死なれました。
神さまの愛は変わることなく、あなたに注がれているのです。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
この週も、ホームページを通して、聖書からのメッセージをお届けいたします。あなたの心に、あしたに向かう、生きる勇気と喜びが与えられますように。
人生には、たくさんの涙を流すときがあります。悲しみの涙、苦しみの涙、挫折の涙、別れの涙、そして、喜びの涙、とさまざまです。
涙を流したぶんだけ、やさしくなれる、と言われますが、聖書の主人公であるイエス・キリストさまは、『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです』とお語りになりました(聖書:マタイの福音書5章4節)。
どんなに長いトンネルでも、出口のないトンネルはありません。どんなに暗くても明けない夜はありません。聖書は語っています。『夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある』(詩篇30篇5節)と。イエス・キリストさまが、一緒になって私たちの悲しみを担ってくださるからです。
「そこに喜びのあしたが!」、あなたの上に豊かにあたえられますように。
丹波柏原教会 牧師 川原﨑晃
礼拝後、5月31日(日)11時30分頃より開催します。フランクフルト、焼きそば、デザート、コーヒー、ジュースなどをご用意しています。
どなたでもお気軽にお立ち寄りください。教会への勧誘を行う場ではございませんので、いこいの場としてください。
※上記の画像はイメージです(部屋はもう少し狭いのです ^_^ ")